TOKYO NO.1 SOULSET結成30周年企画 DJ 川辺ヒロシ INTERVIEW

TOKYO NO.1 SOULSET結成30周年企画 DJ 川辺ヒロシ INTERVIEW

80年代後半に東京のアンダーグラウンドな音楽シーンで活動を開始し、どのジャンルにも当てはまらない独自の音楽性とスタイルで90年代を席巻したTOKYO NO.1 SOULSET。今年活動30周年を迎え、さらに進化を続けるグループの楽曲制作の中心であり、様々なフロアを沸かせ続ける現役DJでもある川辺ヒロシ氏に、“変わってきたことと変わらないこと”をテーマに、長いキャリアを振り返っていただいた。

レゲエは一切かけないで、色々な曲をクイックでMIXをして盛り上げていた

 

ーー今年がTOKYO NO.1 SOULSET30周年ということで、1990年から歴史が始まるわけですが、その前身である「ドラゴン&ビッケ」としての活動は何年くらいからだったのですか?

 

川辺 何年からっていうのは分からないかな。そもそもグループ自体はもう活動していて、自分は別でDJをやっていたんだけど、(メンバーと)バイト先の洋服屋が隣だったのもあって「バッキングDJをやってよ」と頼まれたのが最初。ドラゴン&ビッケはその頃レゲエをやっていて、俺はレゲエDJではなかったので、それ以外の音楽も混ぜるけどっていう話で参加することになったんだ。その頃のサウンドシステムの種類としてSOUL SETとラバダブ・スタイルっていうのがあって、ラバダブ・スタイルはレゲエをかけながら(リズムやビートに合わせて喋ったりする)トースティングをするスタイルなんだけど、SOUL SETっていうのはレゲエだけではなく、ソウルやディスコなんかもかける新しいスタイルで、どうせやるならそっちの方がやりたいなって思ったんだよ。なので、ライブの合間は俺がDJをやるんだけど、レゲエは一切かけずに、色々な曲をクイックでMIXして盛り上げるていうのをやっていて、そういう1時間くらいのセットが段々と完成していった。当時チエコ・ビューティー(レゲエシンガーの草分け的存在)も同じバイト先で、彼女はもうその頃有名だったから、抱き合わせで代々木チョコレートシティや地方のイベントなどを周るようになっていったんだ。

 

ーー元々はレゲエスタイルでやっていたドラゴン&ビッケに川辺さんが加わることで、スタイルが変化していったんですね。

 

川辺 そうだね。そもそも、ビッケもドラゴンもハードコアなレゲエの人ではなかったから。だから二人ともイジメられていたというか、レゲエ村からは弾かれるって感じだった。彼らは古着ブームの前から、全身古着でヴィンテージの高い服を着ていたし、雰囲気が違っていたんだよね。

 

ーーその当時はレゲエが盛り上がっていたんですか?

 

川辺 その頃、打ち込みでレゲエをやるダンスホールがヒップホップと同じくらいに出てきて、新しい音楽だったからすごく面白かった。同時にヒップホップも好きになっていったしね。

 

ーーそこから(渡辺)俊美さんが入ってくる経緯というのはどういったものだったのですか?

 

川辺 俊美君は、その頃から原宿ラフォーレのセルロイドという店の社長をやっていたので、知ってはいたんだ。それに、当時はすごく変わった格好をしていたので、自分たちがバイトをしていた通りでも有名人で。その頃に俺はバイトをしている服屋で、スカやファンクのTシャツを勝手に作って売っていたんだけど、それが結構売れていたんだ。それを嗅ぎつけた俊美君が店にやって来て、「ぼくはラフォーレで店をやってる渡辺というものだけど、君のTシャツ良いよね」と話しかけてきたのが最初のコンタクトだったと思う。そこから下北沢のZOOでやっているイベントにも遊びに来るようになったんだけど、すごく派手な人だったし、軍団を引き連れて盛り上がっていたから目立っていたよね。最初は前の方で踊っていたのが、そのうちライブ中にステージに上がって踊るようになって、それが賑やかしとして面白かったんだ。だったらもっと踊りの上手い人にもお願いしようと、その時のZOOのスタッフにダンサーの男の子と女の子がいたので、頼んでステージに上がってもらうようになったら、今度は俊美君はダンスではなくてボンゴを買ってきて、ステージで叩くようになっていた(笑)。そうこうしているうちに、一緒に地方を周るようになったんだっけな。

 

ーーそれはダンサー兼ボンゴとしてですか?

 

川辺 俊美君はDJもできたから、それまでの1時間のセットではなくて、自分たちで一晩できるようになったんだよね。俊美君のDJ、俺のDJ、その合間にライブっていう感じで。だんだんとその形でイベントを任されることが多くなってきて、あちこち周っていたね。ちょうどその頃に、ジョニオ(高橋盾*アンダーカバー・デザイナー)がやっていた東京セックスピストルズっていうSex Pistolsのカバーバンドと同じイベントに出たことがあったんだけど、その日、もうすぐライブなのにバンドのドラムがパクられたか何かで来なくて。そうしたら俊美君が、「俺叩けるよ、大丈夫」って言って、リハもそこそこにステージに上がって、それがその日いた他の誰よりも上手いんだ(笑)。seventeenのブレイクもバッチリ叩いていたしね。それを見て、「この人ドラムも叩けるんだ、超面白い!」と思って。でもメンバーにドラムを入れるわけにもいかないなと思っていたら、俊美君が「ギターも弾けるし、ピアノも弾けるんだけど、今度ギターを弾いてもいいかな」と言ってきて。なんだかよく分からないけど別にいいよと言ったら、多分インクスティックでやった結構大きなイベントに出た時に、打ち合わせもなくギターを持ってステージに上がってきて、ガーッと弾きだして。俺らもビックリしたし、お客さんはポカーンって感じだったよ(笑)。それが俊美君がソウルセットに入った始まりかな。

 

ーーそれは楽曲的にはいつ頃の時期ですか?

 

川辺 まだ曲がない時で、ライブではダンスホールレゲエのB面をかけて、そのリズムに乗せてトースティングをしていたような時期だね。それで人気が出てきたので、高橋健太郎(音楽プロデューサー、エンジニア)さんが企画した、ECDやランキンタクシーさん、クラッシュポッセなんかが参加しているコンピレーションに呼ばれて、「曲を作らないと」ってなったんだ。

 

 

 

 

 

 

フライヤーに誰かが書いていた「東京でNO.1のSOUL SETスタイル」っていうのをそのまま貰っちゃった

 

ーーアルファレコードからリリースされたコンピレーション『Tokyo Disc Jockey’s Only』ですよね。そのCDの発売が1990年で「TOKYO NO.1 SOULSET」の名前が初めて表記されているわけですが、名前の由来は先ほどの「SOUL SET」スタイルからきているのですか?

 

川辺 コンピレーションCDを出すことになって、ちゃんとユニット名をつけなきゃってなったんだと思う。イベントのフライヤーに誰かが「東京でNO.1のSOUL SETスタイル」って書いていて、それがすごく良かったので貰っちゃおうってなったんだと思う。そこで初めて曲を作ることになるんだけど、やったことがないし、やり方も全然分からなかったしでどうしようかと思っていたら、当時MAJOR FORCE(伝説的な音楽レーベル)のマニュピレーターもやっていた福富幸宏君に相談したらいいよと言われて、彼の家にネタで使いたいレコードを持って行ったんだ。そこでサンプリングの仕方や、曲の作り方を教わりながらパズルみたいにして組んだのが、コンピに入っている『アンモラル』だね。

 

ーーその曲が川辺さんが初めて作った曲だったんですね。それまでに作ったことはなくても、楽曲製作をしてみたいという意欲はあったのですか?

 

川辺 全くなかった。DJはやりたかったけど、楽曲制作に関しては、遊びでループを組んだこともなかったから。

 

ーーその後90年代の前半に入り、「TOKYO NO.1 SOULSET」としてのリリースが続きますが。

 

川辺 コンピを出した後すぐに、ナツメグから声をかけてもらったんだよ。ナツメグがチエコ・ビューティーのレコードを出すということで、新しくレーベルを作ることになって、エマーソン北村さんや、TOMATOSの清さん、ダブマスターXさん、それに遠藤賢司や渋さ知らズもリリースしていたんじゃないかな。とにかく色んなものを出していて、そこでソウルセットもアナログシリーズをやろうとなって、何ヶ月かに1回リリースをして、それをまとめたものも出すことになった。ただ、その頃にはもう全然レゲエをやりたくなくなっていたんだよね。

 

ーーその当時は完全にレゲエのグループとして認識されていたのですよね?

 

川辺 池袋のキングストン・クラブっていうレゲエの箱で、ドラゴン&ビッケと一緒にレギュラーをやっていたりしたしね。そこでライブをやって、俺はDJをするんだけど、ほぼレゲエはかけずにヒップホップとかディスコやソウルをかけて、お客さんも入ってすごく盛り上がっていたんだ。だけどレゲエクラブとしては、レゲエをかけないじゃないかっていうのはあったと思う。そこで自分たちはレゲエじゃないなっていうのを感じ始めて。それからは、ZOOで新しいイベントをやるようになったんだ。あそこは何でも混ぜこぜで、逆にレゲエをかけても良かったしね。

 

ーーそういった状況の中で、ナツメグからリリースされた12インチの製作をすることになったわけですね。

 

川辺 あれは多分Massive Attackの1stアルバムが出るか出ないくらい、A Tribe Called Questがデビューするかしないかくらいの頃かな。Jungle BrothersとDe La Soulはデビューしていた時期で、そういったグループが同時代的に動いている感じの中で作ったんだけど、作品としては、これまでと全然違う地味なやつが出来て(笑)。

 

ーーそれは当時のヒップホップに影響を受けたということですか?

 

川辺 ヒップホップの方法論には影響を受けたね。その時はBoogie Down Productionsみたいにヒップホップとレゲエが上手く混ざったようなものをやりたかったんだけど、まだ若かったので、全然スキルが追いついていかないって感じだった。

 

ーーリリースされた3枚についての反響はどんなものだったのですか?

 

川辺 『YOUNG GUYS,GIFTED AND SLACK!』までは洋楽のようなクールさを狙ったんだけど、本当になんの反応もなくて。1枚も売れてないんじゃないかっていうくらい(笑)。その頃にFlipper’s Guitarを辞めた小沢(健二)と仲良くなっていて、毎日一緒にレコード屋に行ったりしていたんだ。彼はまだ学生で、バンドも解散したし次に何をやろうかなって時期で、ツルんでよく遊んでいた。その時に彼がこのCDを褒めてくれたんだけど、本当に初めて褒めてくれる人がいたと思って。このCDの1曲に、日本語の歌詞でやっているアル中(『Too Drink Too Live』)って歌があるんだけど、それのトラックと歌詞をすごく褒めてくれて。1枚も売れてないかもしれないけれど、「あの小沢健二が認めてくれるならいいんじゃん」っていう妙な自信になったね。みんな寒いと思っているのかなと考えていたところに、真正面からすごくいいよと言ってくれたから。